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上原ひろみ (piano) 1979年、日本の静岡に生まれた上原ひろみは6才でピアノを始めた。彼女は最初の教師から音楽の技術面と共に直感を大切にすることを学んだ。 そのピアノ教師について、「彼女はいつも高いエネルギーがあり、非常に感情豊かでした」とひろみはいう。「例えば、あるダイナミックさで私にピアノを弾かせたいと思っても、それを専門的なことばで言ったりしませんでした。情熱的な曲のときは、『赤を弾いて』と言いました。又、やわらかな感じの曲だと、彼女は『ブルーを弾いて』と言いました。そんな風に、私は単に耳からではなく、ほんとうに心から弾く事が出来たのです。」 ひろみはその後一年足らずでヤマハ・ミュージック・スクールに入り、その直感的アプローチをさらに進めることになった。12才の頃には公の場で演奏し、時には有名なオーケストラとも共演していた。「14才の時、チェコに行ってチェコ・フィルハーモニックと演奏しました。あのようなプロフェッショナルなオーケストラと演奏するのは、素晴らしい経験でした。」とひろみはいう。 成長と共に、彼女のテイストはクラシックとともにジャズへと広がっていった。17才の時、チック・コリアと出会うチャンスがあり、その翌日にはこの有名なジャズピアニストと一緒に演奏することになった。 ヒロミはその時の事をこう振り返る。「東京での事でした。彼はその時ヤマハで何かをしてて、丁度私もレッスンを受けるために上京していたんです。私はぜひ彼に会いたいと先生に言いました。私が彼と一緒に腰掛けると、彼は『何か弾いてごらん』と言いました。それで何か弾くと、『君は即興が出来るかい』と言いました。出来ると答え、私達は2台のピアノの即興を弾きました。それから、彼は私がその次の日があいてるかと聞き、あいていると答えると『僕は明日コンサートがある。来てみないか』と言ってくれました。それでコンサートに行くと、コンサートの最後に私の名前を呼びました。そして、一緒に即興演奏をしたのです。」 2、3年の間、日産を始め日本のいくつかの有名企業のためのコマーシャル・ソングを書いた後、ひろみはボストンのバークリー音楽院で勉強するため1999年にアメリカに渡った。その卒業を2003年5月に控えている。アメリカに来た時に既に大きく開かれていた彼女の音楽的感性は、バークリーの経験によってその範囲がさらに遠くにまで押し広げられていった。 「私の音楽の見方はとても広がりました。ジャズを研究する人もいれば、クラシック音楽を研究する人もいるし、ロックの人もいます。みんな、自分は誰が好きかということにとてもこだわっています。いつも、「この人がベストだ」とか「いや、こっちがベストだ」とか言います。でも、私はみんな素晴らしいと思うんです。 ほんとに、どんなタイプの音楽も区別しません。メタルからクラシック、その他どんな音楽でも聴く事が出来ます。」 彼女のバークリーでの良き指導者のひとりに、編曲とオーケストレーションを教えているヴェテラン・ジャズベーシストのリチャード・エヴァンスがいる。エヴァンスは長年の友人であり協力者のアーマッド・ジャマルと『Another Mind』を共同制作した。ジャマルはひろみの芸術的発展に個人的にも非常に関心を持っている。「彼女は非常に才能がある。彼女の音楽は、その素晴らしい魅力や心(熱意)と共に、限りない音楽的高さにまで彼女を飛翔させるだろう。」とジャマルは言う。 23才のひろみは、文字どおり彼女の周囲の全ての人や全てのものから常にインスピレーションを受けながら無限の可能性の入り口に立っている。彼女に影響を及ぼしたもののリストは、その音楽と同じく境界線が無い。ひろみはこう語る。「私はバッハもオスカー・ピーターソンもフランツ・リストもアーマッド・ジャマルも大好きです。それから、スライ&ファミリー・ストーンやドリーム・シアターやキング・クリムゾンもとても好きです。そのほか、カール・ルイスやマイケル・ジョーダンのようなスポーツプレーヤーからも多いに影響を受けています。私は大きな大きなエネルギーを持ったあらゆる人々から影響を受けているんです。彼らは私の心に直接に働きかけてくれます。」 しかし、彼女は主義として自分の音楽にレッテルをはろうとはしない。彼女は感動するものは何でも追求しつづけ、定義は他者に任せるだろう。 「私は自分の音楽に名前を付けたくないんです。私のする事に他の人々が名前を付けてくれたらよいのです。それは私がこれまで聴いてきたもの、学んできたものの結合なのです。クラシックの要素もあればロックやジャズも入っています。でも私は名前をつけたくないのです。」 2004年4月、2ndアルバム「ブレイン」をリリース。
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