ジュニア・マンス (08.08)
しげのゆうこ (Vo) 08.07.22
アキコ・グレース (Pf) 08.07.15
アマンダ・ブレッカー(V) 08.07
中嶋美弥 (Pf) 08.06.16
松本 茜 (Pf) 08.06.06
Hitomi (Ts) 08.05.11
石田幹雄 (Pf) 08.04.07
中垣あかね (Vo) 08.02.17
安井さち子 (Pf) 08.1.26
鈴木良雄 (B) 07.11.17
井上陽介 (B) 07.10.17
秋谷えりこ (Pf) 07.9.20
井上ゆかり (Pf) 07.4.20
安富祖貴子 (Vo) 07.3.9
市原ひかり (Tp) 06.8.25
白崎彩子 (Pf) 06.6.6
寺井尚子 (Vl) 06.1.2
増尾好秋 (G) 05.8.25

クレジットではデビッド・マシューズ(以下デイヴ)のアレンジということになっていますが、特にあなたの曲のアレンジに関して、あなた自身のアイディアはどのぐらい反映されているんですか。
−私もアレンジの作業に関わっていたのは間違いありません。それに、プロデュースの面でも少しは協力していています。私も常に現場にいて、曲ごとに意見を出していましたからね。
私は音楽家の両親のもとに生まれたこともあって耳は良いので、音楽の細かい部分まで聞こえてしまうんです。今回は、私のオリジナルも5曲入れられて嬉しく思っていますし、デイヴは素晴らしいアレンジを書いてくれたと思います。
私にとってはレコーディングのプロセス全てが興味深いものでした。これは私のファースト・アルバムで、今までには経験したことがありませんでしたからね。
デイヴは偉大なアレンジャーで、一緒に仕事ができたのは信じられないほど素晴らしい経験でした。川島さんも素晴らしいプロデューサーですし、私たちは素晴らしいチームとして仕事ができました。
アルバムは初めてでも、すでにライヴ活動の経験はあるんですよね。
−ええ。
アルバムに収録されたオリジナル曲の中で、ライヴで演奏したことのあるものはありますか。
−「Lovetalk」はデイヴがアルバムのために書いてくれた曲ですし、カヴァー曲はこのアルバムのために、レコーディングの2、3ヶ月前に決めましたが、オリジナル曲はライヴでも演奏したことがあります。
でも、それはあくまでも学内で演奏しただけで、公のコンサート・ホールで演奏したわけではありません。大学では3つのグループで活動していて、ひとつは自分のバンド、ひとつはア・カペラのグループ、もうひとつはコーラスでした。
バンドは7人編成で、私はヴォーカルとキーボードを担当していました。音楽的にはポップスやジャズ、ブルース、ヒップホップなど、あらゆる要素をミックスしたもので、ある種このアルバムと共通した部分もありました。
バンドでは私のオリジナルも演奏していましたし、私はポルトガル語でも歌っていました。内輪でCDを作ったこともあります。
レパートリーはオリジナルでしたか。
−全部オリジナルでした。私のほかにラッパーもいて、あとはサクソフォンにギターが2人か3人、ドラムス、ベースという編成でしたから、楽器は全て揃っていました。
私は紅一点でした。でも、私がいちばん最初にライヴのステージを踏んだのは9歳の時だったんです。パリでミルトン・ナシメントと共演しました。
そりゃすごい!
−もともと、私にとって音楽をやるのはごく自然なことで、スタジオへ遊びに行って歌うのも平気でした。友達から、「どうしてそんなことができるの!」って感心されたこともありましたが、私は幼い頃から、特に意識することもなくそうしていたんです。
家では手近なものをマイクに見立てて歌を歌ったり、ピアノを弾いたりしていましたしね。
ご両親(イリアーヌ・イリアスとランディ・ブレッカー)があなたをスタジオに連れて行ったりすることもあったんでしょうね。
−しょっちゅう連れて行ってくれました。スタジオで育ったようなものです(笑)。母の仕事の都合でスタジオの中に泊まらなければならなくて、ベッドを用意してもらったりもしていましたから。
でも、私はスタジオへ行くのが大好きでした。夜中にふと目を覚まして、レコーディングされた音楽に耳を傾けているうちにふたたび眠りに就いたり、ミュージシャンたちにまとわりついたり・・・だから、スタジオには慣れっこになっていたんです。
私にとっては別荘みたいなものでした。それで、私は6歳の時に、母のアルバム『Fantasia』でミルトン・ナシメントの歌をレコーディングしましたが、9歳になってから、その歌をパリでミルトン・ナシメント本人と一緒に歌うことになったんです。
ちょうど母がパリでライヴをやっていて、同じ時にミルトンもパリにいました。母はミルトンとは旧知の仲で、私が歌っているアルバムも彼に送っていましたし、彼は私の歌を聴いて涙が出たと言ってくれてもいました。
それで、母はパリでミルトンと鉢合わせした時に、冗談で「娘と一緒に歌ったら?」って言ったんですね。そうしたら彼も大乗り気で、私はその歌を復習して、翌日には3,000人の聴衆の前でミルトンのステージに立ったんです。
私は立派に勤めを果たして(笑)、以来機会あるごとにステージに出ていました。ステージは居心地が良いし、楽器を弾くのも歌を歌うのも大好きだし・・・。
つまり、あなたにとってプロになった“瞬間”というのは、あまりはっきりしていないということでしょうか。
−本当の意味でのプロ・ミュージシャンとしての活動は、このアルバムの発表が最初でしょうね。4年間通った大学を卒業したばかりですし、ライヴ活動はずっと続けていましたが、プロとしてやっていたわけではありませんから。
大学ではフランス語とスペイン語を勉強して、1年間はフランスでフランス語の博士論文を書いていたんです。その間も作曲はしていましたが、勉強の方が忙しくてあまりライヴ活動はしていませんでした。
博士号を取得した後、母と一緒に行ったライヴにたまたまデイヴも奥さんと一緒に来ていて、私たちは話をして電話番号を交換したというのが、全ての始まりだったんです。
デイヴと会ったのは去年(2007年)の8月ですか。
−ええ、去年の夏でしたから、8月か9月だったと思います。
デイヴには、内輪で作ったという大学のバンドのCDも聴かせたんですか。
−実は、18歳の時に自作の曲をレコーディングしたデモがあったんです。それは、大学では音楽を専攻するかもしれないと思って、そのプロモーションのために作ったんですが、その曲をいくつかメールで彼に送って、彼がそれを気に入ってくれたのがきっかけでした。
バンドでCDを作ったことはありましたが、自分のCDとしてはこの『Here I Am』が最初で、私にとっては特別な経験になりました
あなたの曲のアレンジは、大学で演奏していた時とこのアルバムとでは、どんな風に変わりましたか。
−大学で演奏した時には、いつもピアノの弾き語りでした。だから、本格的なアレンジが加わったという意味では大きく変わっています。でも、デイヴが素晴らしい仕事をしてくれたと思うのは、私がもともと弾き語りをしていた時の雰囲気がそのまま保たれているからです。
アルバムで聴かれるアレンジには、私の意図が完全に生かされています。私は頭の中ではいつも他の楽器も鳴っていましたが、私はアレンジャーというわけではないので・・・。
いずれはアレンジの勉強もしたいと思っていますが、それはともかく、たとえば「Novo Lugar」などは、まさに私の頭の中で鳴っていた通りのサウンドになっています。あと、アルバムでは歌に専念しましたが、デイヴが連れてきてくれたピアニストのマイク・リシューティは、私の弾き方を完璧に再現してくれました。
あまりにも完璧で、聴いていて不思議な気がするほどです。「Wasted Time」も「Here I Am」も、とにかくどの曲も私が思い描いていた通りのアレンジになっています。
マイク・リシューティは、スーパー・トロンボーンのアルバム『Take The A Train』(BIRDS RECORDS / XQDJ-1002)でもキーボードを弾いていますね。
−そうなの。彼は私のアルバムでも、キーボード全般を担当してくれたわ。母も2曲でピアノを弾いてくれたし、父も2曲に参加してくれて嬉しかったけれど。
「Lovetalk」は作者のクレジットがデイヴと奥さんの連名になっていますが、この曲が出来たきっかけはご存知ですか。
−アルバムに入れる曲が全部決まる前に、デイヴも1、2曲提供したいと言ってくれて、私は出来上がった曲を彼が家のコンピューターで再生するのを聴かせてもらったんです。
歌詞は奥さんのマティが書いてくれて、それ以上のことはよく知りませんが、曲も素晴らしい出来だし、他の曲ともとても良く馴染んだので、とても気に入っています。
「Lovetalk」は、歌詞とミディアム・テンポのボサ・ノヴァのリズムが相まって、とても魅惑的な雰囲気が出ていますね。
−そうですね。「Novo Lugar」もそうですが、アルバムにブラジルの雰囲気を添える曲になっていて、とても気に入っています。
カヴァー曲はどうやって選びましたか。
−カヴァー曲に関しては、みんなで話し合って決めました。まず、川島さんをはじめ、バーズ・レコーズのスタッフが私のヴォーカルに合いそうな曲を選んでリストを送ってくれて、私はそれを聴いたり、自分で曲を選んだりして作ったリストを送り返してっていうやり取りを何度か繰り返して、候補を絞り込んでいきました。
スタッフの方々が選んでくれたのは、「Up!」と「Talk To Me」で、私の側から提案したのはボニー・レイットがヒットさせた「I Can’t Make You Love Me」とジョン・メイヤーの「Your Body Is A Wonderland」、それに「Sunrise」でした。
「If This Is It」ははもともと、私の義理の父(イリアーニの現在の夫)のマーク・ジョンソンのアイディアでした。私はもともとジョン・メイヤーの大ファンで、彼の音楽も作風も大好きです。
彼の音楽は、私が曲を書く上でものすごく参考になるんです。「Your Body Is A Wonderland」は素晴らしい曲ですし、女性がジョン・メイヤーの曲をカヴァーするのは初めてということもあって、とても興味がありました。
この曲はもともと女性を対象にしたものですが、曲として素晴らしいので、思い切ってやってみようと思ったんです。ノラ・ジョーンズも好きでよく聴くんですが、
「Sunrise」は特に惹かれた曲で、私の声との相性も良いし、アルバムにも合うと思って取り上げることにしました。ボニー・レイットが歌った「I Can’t〜」は以前から大好きで、オーディションを受ける時にはいつもこの曲を歌っていたんです。
さっき話したア・カペラのグループのオーディションでも、この曲を歌いました。彼女の歌い方も気に入っていたので、取り上げました。
「If This Is It」は義理の父の推薦で、私は全く聴いたことのない歌でしたが、彼に聴かせてもらった時、上手く行きそうだと思ったんです。スタッフも賛成してくれたので、取り上げました。
「Up!」はスタッフの推薦でしたが、シャナイア・トゥエインはもともと大好きでした。
カントリーのシンガーもお好きなようですね。
−いろんなタイプのシンガーが好きなんです。ジャズ・ミュージシャンの家に生まれた私は、もちろんジャズも大好きでしたが、ポップスもカントリーも、ヒップホップもR&B、ソウル、ブラジルのボサ・ノヴァやアシェなど、好きな音楽は他にもたくさんあったんです。そんなわけで、シャナイア・トゥエインも大好きでした。
シンガーに限らず、カントリーがアメリカ人のミュージシャンに与えた影響というのは、意外なほど大きいようですね。
−その通りだと思います。私の場合はアーティストにもよりますが、シャナイア・トゥエインのように、ポップ寄りのカントリー・シンガーが好きなんです。
ノラ・ジョーンズもカントリーに影響を受けていると思います。
ノラ・ジョーンズが好きだという話でしたが、「I Can’t〜」のあなたの歌い方には、ノラ・ジョーンズと共通するものが感じられますね。「Sunrise!」よりもノラ・ジョーンズっぽいというか・・・。
−面白い指摘ですね。たしかに、私の声にノラ・ジョーンズと共通するものがあるというのは、友達からも言われることがあります。自分では意識したことはありませんが、もしかするとそうかもしれません。
私としては、自分なりに一番良いと思ったスタイルで歌ったんですけれども。
ところで、あなた自身はアメリカ以外の国に住んでいたことはありますか。
−“住んだ”ことがあるのはアメリカだけですね。私はニューヨークに生まれ育って、母方の祖父母や親戚がいるブラジルにはしょっちゅう行っていますが、あとはバックネル(Bucknell)大学時代に大学のあるペンシルヴェニア州に4年住んでいたのと――これは外国じゃないですね(笑)――大学の専攻科目の関係でフランスに5ヶ月とスペインに2、3ヶ月、博士論文を仕上げるために、パリに6週間滞在したぐらいです。
基本的には、父や母と同じように、ニューヨークを拠点に旅の多い生活をしています。
言語はポルトガル語と英語のバイリンガルなんですか。
−そうです。母は私が生まれてすぐに、ポルトガル語を教えました。英語圏に住んでいると、そのうちポルトガル語のアクセントを忘れてしまうと思ったからで、それは母の考えた通りでした。
それはともかく、最初のうちはそんなわけで私は英語を話すのが苦手で、父と上手くコミュニケーションができませんでした。もちろん、父親と娘としてのコミュニケーションはありましたが・・・。
それで、やがて私は国連学校に通うようになりましたが、国連学校では8歳からフランス語が必修でした。
国連では英語とフランス語が公用語ですからね。
−ええ。国連学校にはアフリカや日本、ブラジルなど、文字通り世界中の国々から来た子供たちが通っていましたから、私は様々な文化に囲まれて、とても良い経験ができましたし、8歳で習い始めたフランス語も大好きになって、母がツアーなどでフランスへ行く度に、私もついて行きましたし、大学でもフランス語を専攻することになったんです。
さらに、ポルトガル語とフランス語に近いスペイン語にも興味が出てきて、大学では結局フランス語とスペイン語を主専攻、音楽を副専攻に選びました。
今は日本語も勉強しようとしていますが、日本語はとても難しいですね(笑)。
答えは明らかなような気もしますが、作詞や作曲に興味を持ったのはなぜですか。
−両親ともに素晴らしい作曲家ですし、母は作詞もしますから、作詞も作曲も自分の中にもともとあったもので、話せるようになった頃にはもう、歌を歌い始めましたし、幼い頃から作詞も始めていました。
もちろん、最初の頃は作詞というほどのものじゃなくて、子供の日記みたいなものでした。「ママは私を置いてパーティに行っちゃった・・・」みたいな(笑)。
でも、その場で感じたことを歌にして歌うようになっていたんです。ピアノはいつも弾いていましたし・・・初めて曲らしい曲を書いたのは15歳ぐらいの時だったと思います。
何について書いた曲だったか忘れてしまいましたが、それから間もなくして書いたのが、(『Here I Am』収録の)「Wasted Time」でした。
そうだったんですか。
−ええ。曲の書き方にはいろいろあって、何日もかかることもありますし、突然ひらめいて一気に完成させることもあります。「Wasted Time」は、ピアノに向かっている時、突然ひらめいて最後まで一気に作りました。
現実を基にしていますし、本当に心を込めて作った曲です。曲によってはもちろん、物語を創作することもありますが、「Wasted Time」は現実を題材にしたもので、たしか1時間ぐらいで完成したと思います。
そのことに自分でも感動して、もっと曲を作ろうという気になりました。
現時点でオリジナルは何曲ぐらいありますか。
−譜面に書いた曲という意味では、それほどたくさんはありません。私はいつも小型のレコーダーを用意していて、アイディアが思い浮かぶと歌詞を書いて、ピアノ・パートをレコーディングしておくんです。
他のパートをコンピューターで作ることもありますが、それは譜面ではなく、耳を頼りに作っています。そんなわけで、さっき話したバンドのメンバーと一緒に作ったものが12曲ぐらいで、私のオリジナルはと言えば・・・未完成のものが多いですね。
今までは大学の勉強を優先させていましたから、曲を書いてもエンディングが気に入らないとそのままになっていたり・・・フランス語で書いた曲もいくつかありますが、それも未完成のままです。
現状では、未完成のものも含めて二十数曲ぐらいでしょうか。今までに書いた歌詞は全部コンピューターに入っていますから、それを曲に仕上げていくのが今後の課題ですね(笑)。
大学では音楽が副専攻だったとのことですが、それ以外に正式な音楽教育は受けましたか。
−国連学校に通っていた頃に、クラシック・ピアノの個人レッスンを受けていたことがあります。母はピアノの先生としても優れていますが、私の方が真面目に習おうとしなかったでしょうから(笑)、別な先生に就きました。
あと、国連学校に1年通った後、パフォーミング・アートの学校でヴォイス・トレーニングや音楽理論などを習いましたが、当時私が住んでいたアパートから遠くて、通学に時間がかかりすぎましたし、総合的に見ると国連学校の方が教育環境は良いということで、1年通った後、ふたたび国連学校に復学したんです。
バックネル大学でも副専攻で音楽を1年勉強しましたが、譜面にはあまり強くなりませんでした。耳が良いというのには、良いことばかりじゃありません。私はもともと初見が苦手でしたし、ピアノのレッスンを受けていた頃には、先生の演奏を聴いて曲を覚えていましたから、今でも譜面や理論が苦手なんです(笑)。
だから、曲を譜面にできるようになることが今後の課題ですね。
これからはシンガーに専念するつもりですか、歌とピアノを並行してやっていくつもりですか。
−それについては、今もまだ悩んでいるところです。ピアノが作曲の基盤になっているのは間違いありませんが、プロのピアニストとしてやっていくには、そのためのテクニックや知識に磨きをかける必要があります。私にとってメインの楽器はあくまでも自分の声だと思っていますが、ピアノを弾くのは今も大好きですし、ライヴではピアノの弾き語りのコーナーも設けるかもしれません。
アルバムのアレンジに話を戻すと、どの曲もグルーヴの選択がとても重要な意味を持っていると思いますが、アレンジの作業は具体的にどのように進められたのですか。
−グルーヴを選んだのは基本的にデイヴです。私は彼の家へ行ってアレンジを聴かせてもらって、どんなテンポが最適かを話し合ったりする程度でした。
基本的に、彼のアレンジには文句の付けようがありませんでしたからね。
あなたのオリジナル曲については、あなたのデモを参考にしてアレンジを進めたんでしょうか。
−ええ。基本的に、私が弾き語りをしたデモに他の楽器を加えるという形でした。
あなたの弾き語りを自然に拡張したという感じですか。
−ええ、まさにその通りです。
どんなアレンジャーにでもできるということではないと思いますが。
−そうですね。デイヴは素晴らしい仕事をしてくれたと思います。私も嬉しかったし、感動もしました。自分の曲を他人に預けたら、どんな形になるかわからないものだけれど、結果はものすごく素晴らしくて、とても満足しています。
どの曲にどのソロイストを起用するかは、デイヴが決めたんですか。
−ええ。みんな素晴らしい演奏してくれたので、とても嬉しく思っています。
あなたは音楽的にも幅広いテイストを持っているということで、ちょっと答えるのが難しいかもしれませんが、ヴォーカリストとしては誰の影響がいちばん大きいと思いますか。
−たしかに、それはいちばん難しい質問ですね(笑)。いちばん大きな影響を受けたヴォーカリスト・・・まず、小さい頃にはブラジル音楽やボサ・ノヴァが大好きだったので、ミルトン・ナシメントやトム・ジョビン・・・トム・ジョビンはもちろん、パフォーマーとしてだけじゃなく、シンガー=ソングライターとしてもプロデューサーとしても、全ての点で尊敬しています。ボサ・ノヴァの創始者ですから、私にとっても母にとっても、というか、全てのブラジル人に影響を及ぼしましたけれどね。シンガー=ソングライターとしてはイヴァン・リンスにも影響を受けました。子供の頃は彼の音楽がほんとうに大好きで、レコードになった彼の曲は全部歌えましたし、今でも覚えています。
あとはジルベルト・ジル、カエターノ・ヴェローゾ、それにガル・コスタも大好きでした。それで、子供の頃にはこういう人たちの影響を受けていたんです。
もう少し大きくなって、本格的に歌うようになってからは、実を言うとマライア・キャリーをかなり聴き込んだんです(笑)。彼女は驚異的な声の持ち主で、私は彼女と同じぐらい高い声を出そうと努力しました。
同じ頃にはホイットニー・ヒューストンや、フランク・シナトラも大好きでよく聴きました。今はさっきも言ったノラ・ジョーンズやジョン・メイヤー、あとはサラ・マクラクラン、シャナイア・トゥウェインをよく聴いています。
でも、いちばん大きな影響を受けたのはやはり幼い頃に聴いていたボサ・ノヴァと、あとはマライア・キャリーかもしれません。でも、音楽は私の人生にとってとても大きな部分を占めていますから、影響を受けた人を挙げていったらきりがないですね。
そうでしょうね。では、インストルメンタリストについてはいかがですか。
−率直に言って、私の両親ですね。
何と言っても肉親ですからね。
−ええ。母や父、それに叔父のマイケル(・ブレッカー)、義理の父(マーク・ジョンソン)の影響は大きいですし、もちろんその他の人たちも・・・父がよく共演した人たちにも影響を受けました。
子供の頃、ブレッカー・ブラザーズのツアーに連れて行ってもらって、マイク・スターンやデニス・チェンバースなどの演奏にも感動しましたが、他の誰よりも大きな影響を受けた人といえば、やはり両親ということになりますね。
『Here I Am』に限って言えば、今名前の挙がったブラジル人のシンガーたちから受けた影響はあまり出ていませんよね。
−ええ。
それは意図的な選択だったのでしょうか。
−意図的というわけでもないんです。ポルトガル語で歌うこと自体は何の抵抗もありませんが、ブラジルにもいろいろなサウンドの音楽はありますし、私は自分の声に見合ったスタイルを選んでいます。
たとえば、ブラジル人のシンガーは一般的にあまりヴィブラートをかけずに歌います。私の母もそうで、ポルトガル語で歌うときにはあまりヴィブラートをかけません。
でも、私の声は母の声とずいぶん違いますし、私はヴィブラートをよく使って、よりソウルフルな表現をしています。
ブラジル人、とくにボサ・ノヴァの人たちは、囁くような歌い方をしますよね。
−ええ。囁くような歌い方で、それはそれで美しいのですが、私の歌い方とは違います。母と歌い方について話をすることもありますが、私たちの歌い方はかなり違うんです。
彼女は美しい声の持ち主で、囁くようなセクシーな歌い方が彼女の音楽のスタイルに合っています。でも、私自身が母のように歌うのは難しいと思うことがあります。
実は、「Novo Lugar」のデモを作った時、ポルトガル語でヴィブラートを使わずに歌おうと努力したんですが、けっこう苦労したんです。「あー、ブラジル風にやらなきゃ〜」って(笑)、常に意識していなければなりませんでした。
そんなわけで、アルバムではいつもの自分の歌い方で歌っています。英語の方が私の歌い方には合っているようで、ポルトガル語にふさわしい歌い方は、“今のところは”母に任せておきます(笑)。
「Novo Lugar」というのは、“New Room”という意味ですか。
−むしろ“New Place”と言うべきだと思います。もっと正確に言えば、“New Found Place”に近い意味ですね。ポルトガル語で歌詞を書くのは大好きなんです。
ポルトガル語そのものがとても美しい言語で、どんなことを言っても美しく響いてくれるんですよ(笑)。この歌は2、3年前に、ブラジルで観たソープ・オペラのテーマ曲に刺激を受けて書いたものです。
ブラジルのソープ・オペラというのは質がとても高くて、国民的に人気があるんですが、その中の番組のひとつのテーマ曲でものすごく気に入ったのがあって、その曲のリズムが記憶に染み付いていたんですね。
実際の「Novo Lugar」のリズムとはかなり違いますが、雰囲気がよく似ているんです。で、私はやがてそのことをすっかり忘れてしまって、どんなきっかけでこの曲を書いたかわからないっていう話をしたら、義理の父が「それは、君がブラジルでよく観ていたソープ・オペラだよ」って教えてくれました(笑)。
あなたの歌は総じて、“過去の問題を克服して新しくスタートを切る”といったような、前向きな内容のものが多いように感じたのですが。
−たしかにそうかもしれません。「Novo Lugar」の内容はまさしくそうですし、「Here I Am」もほぼそうですしね。
「Here I Am」は曲の出来や歌の内容、タイトルと、あらゆる点でデビュー・アルバムのタイトル曲にふさわしい作品ですね。
−そう言っていただけると嬉しいですね。「Here I Am」というタイトルには、もうひとつの意味があります。私の母が父と一緒に作ったデビュー・アルバムは『Amanda』で、タイトルに私の名前が付いていました。
あのアルバムは日本でもプロモーションがあったと思いますが、私のこのデビューCDは、あれから24年経って「私がそのアマンダです!」と言っているようなアルバムになりましたからね。
話は前後しますが、レコーディング・セッションの調子はいかがでしたか。
−私はかなり体調を崩していましたが、セッションそのものはとても順調でした。私はスタジオ慣れしていますし、ミュージシャンたちは素晴らしくて、リハーサルでダメ出しをする必要もなく、いきなりツボを押さえた演奏ができる人たちでしたから。
アルバムは自分の子供みたいなものですから、私はもちろん、全ての作業に立ち会って、細かいところまで神経を配っていました。体調を崩していたという点で苦労はありましたが、私にとっても素晴らしい経験でした。
それはそうと、今回、日本に来たのは何回目ですか。
−2回目です。初めて来たのは9歳の時でした。母とマーク、それにドラマーはサトシ・タケイシで、ブラジルの祖母も一緒でした。私はひどい時差ボケで、いつもうとうとしていた覚えがあります(笑)。
あとは、様々な街の照明を見てクラクラしたことや着物を買ってもらったことを覚えています。お寿司は大好きですから、今回また日本に来られてとても幸せです。
街はゴミも無くてきれいだし、地下鉄のシステムはきちんとしていて、ニューヨークとは大違いです(笑)。みんな親切だし、礼儀正しいし、街の照明も美しいですね。
今回は新宿や渋谷へも行きましたが、やはり東京は大都市で、サンパウロを思い出しました。レコード会社の方も素晴らしい人ばかりで、とても親切にしてくださいますし、食べ物は美味しいし、次回の来日も楽しみです。
音楽と言語の他には、どんなことに興味がありますか。
−私は旅行が好きで、いろいろな文化や言葉を学ぶことに興味があります。今回も、いろいろなことを質問して、レコード会社の方を困らせています(笑)。
あとは芸術も大好きです。両親の祖母はどちらも芸術家で、母方の祖母はいろいろな人の絵の複製が上手で、色遣いも素晴らしくて、とてもリアルです。父方の祖母は陶器などに絵を描いていましたし、彼女はピアノも弾きます。
私も芸術が大好きで、絵を描くのも好きです。子供の頃は、ディズニーに就職して絵を描きたいと思っていたこともありますし、クリスマスになると、ツリーに飾る立体のフィギュアを作ったりもしました。
あとはダンスも好きで、以前はタップ・ダンスやモダン・ジャズ・ダンス、バレエもやりましたが、実はヒップ・ホップ・ダンスが大好きです(笑)。フォホというブラジルのダンスも好きですし、サルサやメレンゲなど、ビートの素晴らしいものが好きですね。
今日はいろいろとお話を聞かせていただいて、ありがとうございました。